日本の鉱業は、明治維新を機に大きな転換期を迎えました。江戸時代までの伝統的な採掘方法から、西洋の先進技術を積極的に取り入れた近代的な鉱山開発へと移行していったのです。
本記事では、明治維新から第二次世界大戦終結までの約80年間における日本の鉱業の発展を、技術革新と経済的側面を中心に解説します。
明治維新による鉱山の近代化(1868年〜1880年代)
明治維新後、新政府は「富国強兵」と「殖産興業」をスローガンに掲げ、日本の国力を高めるため、鉱業の近代化に着手しました。具体的には、1869年(明治2年)に主要な鉱山を官営化し、西洋の最新技術を導入するため、多くの外国人技術者を積極的に招き入れたのです。彼らの指導の下、西洋の先進的な採掘技術や精錬技術が、日本の鉱山に次々と導入されていきました。
佐渡金銀山では、イギリス人技師ガワーが火薬による発破や、鉱石運搬にトロッコを導入。アメリカ人技術者ジェニンは水銀を使った精錬法(アマルガム法)を伝え、ドイツ人技術者レーは、日本初の垂直坑道である「大立竪坑(おおだてたてこう)を掘り進めるなど、多角的に技術が導入されました。
生野銀山においても、フランス人技師であるコワニエが火薬発破や軌道敷設、巻揚機の導入を進めました。さらに1878年(明治11年)年には、生野と飾間(しかま)間に全長50kmのマカダム式舗装道路を整備するなど、鉱山を支える物流インフラの改善にも貢献しています。
これらの技術革新は、鉱山の生産性を飛躍的に高めました。佐渡金山では、1877年(明治10年)に、日本最古の西洋式竪坑が完成。地下エレベーターで鉱石を垂直に効率よく運び上げるこの施設により、大量の鉱石の採掘、運搬が可能になりました。また、生野銀山に導入された湿式精錬法は、銀の回収率を大幅に向上させることに成功したのです。
しかし、急速な近代化は良い側面ばかりではありませんでした。全国各地で、機械化による失業不安から、農民などによる暴動が発生したのです。生野銀山でも、人員整理への不満から一時的に不穏な空気が漂いましたが、当局は救援米の貸与や生業対策を講じることで事態を収拾しました。このように、この時代は技術革新が経済的恩恵をもたらす一方で、雇用の不安定化や貧困といった新たな社会問題が顕在化し始めていました。
鉱業の民営化と産業革命(1880年代〜1900年代)
1880年代後半に入ると、政府は財政難を理由に、それまで官営だった鉱山の払い下げを進めます。1885年(明治18年)の阿仁銅山を皮切りに、1896年(明治29年)には佐渡金山、生野銀山など、多くの鉱山が次々と民間企業に売却されていきました。
鉱業が民間の手に渡ったことで、経営の効率化と近代化は一層加速します。特に、三菱・古河・住友といった財閥系企業が鉱山経営に参入し、その潤沢な資本力を背景に、大規模な設備投資を始めます。民間経営下では鉱山の電化が推進され、1908年(明治41年)には北沢火力発電所、1915年(大正4年)には戸地川第一水力発電所が完成するなど、電力供給体制も強化されていきました。
この時期、日本の銅生産は驚くべき成長を見せます。1880年(明治13年)に4669トンだった生産量は、1890年(明治23年)に1万8115トン、そして1900年(明治33年)には2万4317トンにまで急増したのです。この飛躍的な成長を支えたのは、「坑内電化」や「酸性転炉の導入」、「電解精錬による金と銀の分離」、「自溶法の開発」といった、次々と生み出された技術革新でした。
また、同時期には鉱業関連の法整備も進みました。1873年(明治20年)に公布された「日本坑法」は、鉱区の設定や採掘権などを明確に規定し、民間による鉱山開発を強力に後押ししました。これにより、鉱業への民間投資がさらに活発化し、産業としての基盤がより強固なものとなっていきます。
一方で、江戸時代まで日本の製鉄を支えてきた「たたら製鉄」はこの時期に最盛期を迎えるものの、西洋式製鉄法の導入により、次第に衰退の道を歩み始めました。1894年(明治27年)には西洋式高炉による銑鉄生産量がたたら製鉄を上回り、1901(明治34)年に操業を開始した官営八幡製鉄所を皮切りに、国主導での鉄の量産体制が確立されていったのです。
日露戦争後の鉱業発展と業界再編(1900年代〜1930年代)
日露戦争(1904-5年)から第一次世界大戦(1914-18年)にかけて、日本の鉱業はかつてない好景気に沸き立ちます。
この時期には、造船・鉄鋼・電力事業・電気工業といった関連産業の目覚ましい発展を遂げたことで、銅を中心とする金属鉱業は揺るぎない地位を確立しました。多くの鉱山企業が韓国や台湾にも進出し、日本の鉱業は国際的なつながりを見せていったのです。
生野鉱山は日清・日露戦争を契機に生産を拡大し、最盛期には1900人の従業員が働き、月44万トンもの粗鉱石を産出する一大鉱山へと発展しました。佐渡金山でも1940年(昭和15年)に年間1538kgの金を生産し、歴史上最高の生産量を記録しています。
この時期の鉱業の発展は、日本の工業化を大きく後押ししました。特に電気工業の発達は銅の需要を大幅に増加させ、国内市場が大きく拡大しました。また、海外市場への過度な依存が低下したことで、日本の鉱業は国内経済との結びつきを一層強めていったのです。
しかし、第一次世界大戦後の1920年(大正9年)に発生した不況は、鉱業界に厳しい再編を促しました。この過程で多くの中小鉱山が閉鎖され、労働者の失業問題が深刻化します。一方で、体力のある大手鉱山会社は、カルテルの結成や独占体制の確立を通じて、この厳しい不況を乗り越え、銅部門では5社で全生産量の87%を占めるまでになりました。
戦時体制下の鉱業(1930年代後半〜1945年)
1937(昭和12)年の日中戦争勃発以降、鉱業は軍需産業として位置づけられ、政府の統制下で増産が図られました。その一環として、1938(昭和13)年には「重要鉱物増産法」が制定され、戦局に必要な物資を確保するための増産体制が敷かれたのです。
しかし、戦局の悪化に伴い、より徹底的な資源の活用が求められるようになります。
1941年(昭和16年)9月1日には、「金属回収令」が施行されました。この法令は軍需生産の原料となる金属類の供出を定めたもので、国民の日常生活にまで影響を及ぼすことになります。
回収の対象は廃品にとどまらず、家屋の鉄柵や手すり、寺院の仏具や梵鐘はもちろんのこと、マンホール・スチーム・鍋・釜・火鉢などの日用品に至るまで、あらゆる金属赤貧が徴収されていきました。
戦時下の鉱山では、深刻な労働力不足が常に付きまといました。多くの熟練労働者が徴兵され、代わりに女性や学生、さらには朝鮮人労働者が動員されましたが、技術や経験の不足から生産性の維持は困難を極めます。加えて、物資不足により設備の補修もままならず、鉱山の生産能力は著しく低下していきました。
政府はこのような苦境を打開しようとさまざまな策を講じましたが、労働力と資源の不足という根本的な問題を解決することはできず、生産は低迷の一途を辿ることになります。そして1945年(昭和20年)の敗戦により、多くの鉱山が閉鎖され、日本は戦後の復興期を迎えることになったのです。
まとめ
明治維新以降、日本の鉱業は西洋技術を積極的に取り入れ、国の近代化と工業化を支える屋台骨となりました。大規模鉱山の発展と銅の生産・輸出は、日本の経済成長と国際的な地位向上を牽引しました。しかし、その一方で、急速な機械化による労働問題や環境負荷、戦時下の過酷な統制といった負の側面も経験することになります。この時代は、日本の鉱業が国家戦略の最前線に立ち、大きな光と影を併せ持ちながら発展した時期だったと言えるでしょう。
【出典】
日本の鉱山を巡る(上)
https://amzn.to/3WCvQ9u
佐渡島の金山 佐渡金銀山における外国人技師の活動
https://www.sado-goldmine.jp/about/aikawa-after-meiji/
秋田大学付属図書館 阿仁鉱山年表
https://www.lib.akita-u.ac.jp/top/ja/node/116
史跡生野銀山
https://www.ikuno-ginzan.co.jp/about/about01.html
JOGMEC 第2章 我が国の銅の需給状況の歴史と変遷
https://mric.jogmec.go.jp/wp-content/old_uploads/reports/report/2006-08/chapter2.pdf
中央区 歴史年表 1941年8月30日 金属回収令公布
https://www.city.chuo.lg.jp/virtualmuseum/sensokiroku/history/1941_0830.html
NHKアーカイブス 強いられた石炭増産
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001110501_00000
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