別子銅山の歴史―住友によって283年続いた採掘活動と公害対策から発展した事業

May 28, 2026

別子銅山は、1691年(元禄4年)の開坑から1973年(昭和48年)の閉山まで283年にわたって住友家が一貫して経営した銅山で、単一の企業体が300年近く同じ鉱山を操業し続けた例は極めて稀です。

しかし、別子銅山の歴史は単なる採掘の記録にとどまりません。明治期の近代化、煙害という環境問題への対応、そしてその過程で生まれた事業が現在の住友グループ各社の源流となりました。

本記事では、住友グループ発祥の地となった別子銅山の歴史を、現地取材とともに紹介します。

江戸時代 ― 山奥で始まった銅山開発

別子銅山の歴史は、1690年(元禄3年)に四国山地の奥深くで巨大な銅鉱脈の露頭を発見したことに始まります。翌1691年、住友家2代目・住友友以(とものち)のもと、幕府から採掘の許可を得て開坑。以来、住友家による283年にわたる経営が始まりました。

しかし、標高1,000メートルを超える山岳地帯での採掘は、想像を絶する過酷さを伴いました。採掘した鉱石を山の外へ運び出す手段は「仲持(なかもち)」と呼ばれる人力輸送です。男性は約45kg、女性でも約30kgの鉱石を背負い、険しい山道を往復する必要がありました。

人力で鉱石を運んでいた時代を再現した様子

新居浜に届いた銅は大坂へ送られ、純度99%の精銅に製錬されたのち、長崎から輸出される分と国内消費用とに振り分けられました。江戸時代の日本は世界有数の銅生産国であり、別子銅山はその中でも主力を担う存在で、開坑からわずか数年のうちに年間1,500トンの生産規模に到達。

長崎の出島を通じてオランダや中国に銅を輸出し、日本が世界一の銅生産国となる原動力を生み出していったのです。

明治時代― 広瀬宰平による近代化 

広瀬宰平の像

江戸時代の終わり頃になると、外国船の来航や幕府の衰退によって日本経済は不安定となり、銅の輸出量も減少。幕末の動乱でさらに経営は苦しくなり、新政府による接収という存亡の危機に陥ります。

この危機を救ったのが、のちに住友初代総理事となる広瀬宰平(ひろせ さいへい)でした。1828年生まれの広瀬は、38歳の若さで別子支配人に就任。明治維新の混乱のなか、官軍に接収された別子銅山の住友による経営権を新政府に認めさせることに成功します。

広瀬は「別子の産物で国益を図り、その事業が住友一家を利するにとどまらず、広く国家社会に貢献するようにしたい」という信念を持っていました。欧米列強に対する日本の危機的状況を肌で感じていた広瀬は、国際商品である銅を活用して日本を盛り上げるには近代化しかないと確信していたのです。

1874年、広瀬はフランス人鉱山技師ルイ・ラロックを雇い入れ、別子銅山の近代化計画を立案させました。しかし最終的には日本人の手で近代化を実現するという方針を貫き、1880年には坑内でのダイナマイト使用実験に成功。人力での採掘から火薬による掘削へと転換し、1882年の産銅量は明治元年の2.4倍以上にまで伸びました。

運搬面でも革新が進みます。1880年に牛車道が完成し、仲持一人あたり40kgだった運搬量が牛車1台340kgへと飛躍。 さらに1893年には国内初となる山岳鉱山鉄道が開通し、鉱石の運搬料量は20トンにまで拡大。江戸時代と比べて約500倍もの輸送能力を実現させました。

別子の山を走っていた山岳鉱山鉄道

こうした近代化の一方で、広瀬は「所有と経営の分離」も推し進めます。各事業の責任者が住友家当主の個別指示を受ける旧体制を改め、事業全体を統括する総理事職を設けたのです。この経営のプロフェッショナルに全権を委任するこの仕組みは、近代的な企業統治の先駆けとなりました。

大正〜昭和初期 ― 東洋のマチュピチュと巨大鉱山都市

時代が進むにつれ、新たな鉱脈を求めて坑口は下へ下へと移っていきました。それに伴い、鉱山施設や町も標高の低い場所へと移動していきます。 

第三通洞の坑口があった標高750mの東平(とうなる)地区には、新たに選鉱場が設けられ、1916年から1930年までは別子銅山の本部が設置されました。東平には鉱山の関連施設とともに本格的な鉱山町が形成され、病院、学校、郵便局、娯楽場などが置かれ、最盛期には約3,700人がこの山中で生活していました。

東平で稼働していた選鉱場(上段)と貯鉱庫(下段)

道から運び出された鉱石は選鉱場で処理され、その下の貯鉱庫に下ろされたのち、索道(ロープウェイ)で端出場(はでば)へと搬出されます。索道のバケット1つには550kgの鉱石を積載することができました。

鉱石を運ぶためのバケット
別子銅山の断面図

1930年には別子銅山の本部が東平から端出場に移され、端出場を中心とした開発が進みます。1938年からは第三通洞内に「かご電車」が走り始め、東平と別子山村日浦を結ぶ約5kmの区間を30分で結びました。鉱山関係者だけでなく一般住民の交通手段としても利用され、山がにぎわっていた頃には10両連結で運行されていたといいます。

エネルギー面では、1912年に端出場水力発電所が完成。標高1,300mの山を貫く水路と鉱山トンネルを利用して吉野川水系の水を新居浜側に導き、597mという東洋一の落差を利用した発電施設が完成します。出力3,000〜4,800kWの電力は、別子銅山の近代化を支える心臓部として、1970年まで59年間にわたり稼働し続けました。

旧端場水力発電所

発展の代償 ― 煙害問題と植林事業

別子銅山の近代化と発展は、一方で深刻な環境問題も引き起こしました。

銅の製錬過程で発生する亜硫酸ガスによって周辺の森林は枯れ、農作物にも被害が拡大。さらに製錬用の薪炭や坑木として大量の木が伐採されたことで、山肌はむき出しとなり、「ハゲ山」と呼ばれる状態になっていました。

現在の別子周辺は豊かな森林に覆われていますが、当時は山全体が荒廃し、煙害問題は地域社会との大きな対立へと発展していきます。

この問題に正面から向き合ったのが、2代目住友総理事・伊庭貞剛(いば ていごう)です。

伊庭は、「住友の事業は国家と社会に貢献するものでなければならない」という理念を掲げ、煙害対策を進めました。

そして1895年、住友は新居浜の山根製錬所を閉鎖。さらに翌年には、製錬所を瀬戸内海の無人島・四阪島へ移転するという大胆な計画を決定します。

この移転費用は、別子銅山2年分の純利益に相当する巨額投資でした。

しかし、孤島である四阪島には電力インフラがありませんでした。

そこで1922年、住友は新居浜から四阪島まで約20kmの海底ケーブルを敷設します。

当時、世界最長だったサンフランシスコ湾の海底ケーブルが約6.7kmだったことを考えると、その約3倍という前例のない規模のプロジェクトです。

四阪島に電気を通すための海底ケーブル(レプリカ)

この送電インフラによって、四阪島製錬所の設備は大幅に近代化され、生産性も向上していきました。

公害対策から発展した住友グループ 

別子銅山の歴史において特筆すべきは、鉱山経営の過程で直面した課題への対応が、そのまま新たな事業の創出につながった点です。

具体的には、以下のような企業が別子銅山の採掘活動から派生して創業されました。

「教養としての三菱・三井・住友」の資料より筆者作成

新居浜の工業地帯には住友関連の工場が立ち並ぶ

閉山から現在まで 

戦後も採掘が続けられた別子銅山でしたが、最深部の劣悪な環境、安全性の問題、そして鉱石中の銅含有量の低下が経営を圧迫していきます。江戸時代には10%を超えていた銅の含有率は、閉山間際には1トンの鉱石から15kgしか採れないほどにまで低下。さらに海外からの安価な銅の流入も重なり、1973年、足尾銅山に次ぐ65万トンの産出を誇った別子銅山は283年の歴史に幕を閉じました。

現在では、「マイントピア別子」と呼ばれる観光施設では別子銅山の歴史を学べるほか、「東洋のマチュピチュ」と呼ばれる東平の産業遺産群をはじめ、歓喜坑、第一通洞、端出場水力発電所などの 産業遺産を見学できます。

マイントピア別子


他にも新居浜市内には「別子銅山記念館」「広瀬歴史記念館」「日暮別邸記念館」などの博物館が存在し、別子銅山と住友家に関する歴史や展示資料をご覧いただけます。

別子銅山記念館
広瀬歴史記念館
日暮別邸記念館

まとめ 

別子銅山は住友による経営が283年間も続いた場所であり、その歴史には技術革新から環境保全、そして新規事業の創出がありました。

現在、銅はEVや再生可能エネルギー、データセンターといった分野で需要が急拡大しつつも供給が追いつかないという課題に直面しています。

これからは、銅資源の確保をどのようにしていくかが課題になりますが、「資源開発と環境保全の両立」と「長期的な視点での経営」を行った別子銅山の歴史から学べることは多くあるのではないでしょうか。

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【撮影・文】

山本峻

【出典】

マイントピア別子

別子銅山記念館

別子銅山のあゆみ

広瀬歴史記念館

日暮別邸記念館

教養としての三菱・三井・住友

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