半導体、電子基板、AIサーバーといった現代のテクノロジーを支える基盤には、必ず「はんだ」が使われています。そして「はんだ」の主原料はスズであることをご存じでしょうか。
現在、日本国内でスズを生産している鉱山はなく、ほぼ全てを輸入に頼っています。
しかし、兵庫県養父市(やぶし)にある明延鉱山は、かつて国内のスズ生産量の90%以上を担った日本最大の錫鉱山でした。
本記事では、明延鉱山の歴史を、現地取材をもとに紹介します。
明延鉱山のはじまり ― 生野銀山の支山として
明延鉱山の採掘が始まったのは、平安時代初期とされています。約1260年前の奈良時代には、東大寺の大仏鋳造に明延鉱山の銅が使われたという伝承が残っており、地元では古くからそう語り継がれてきました。
江戸時代には、明延鉱山は生野銀山の付属銀山として位置づけられていました。生野銀山は江戸時代には幕府直轄の鉱山となり、明治以降は日本初の官営鉱山として近代化が進みます。明延鉱山においても、生野銀山の経営体制に組み込まれる形で、銀や銅の採掘が行われていました。

官営化と三菱への払い下げ
1868年(明治元年)、明延鉱山は生野銀山とともに官営となりました。その後、1896年(明治29年)に三菱合資会社へ払い下げられ、三菱の経営のもとで近代化が進められていきます。
錫の発見と日本最大の鉱山へ
明延鉱山が一躍世に出たきっかけは、錫の発見でした。鉱山内には130以上の鉱脈が確認され、坑道の総延長は最終的に約550kmに達しています。明治42年から昭和62年の閉山まで、明延鉱山は国内のスズ生産量の90%以上を産出し続けました。

神子畑選鉱場と一円電車 ― 鉱石を運び、選び出す仕組み
明延鉱山は錫鉱山として知られていますが、実際には錫だけでなく銅や亜鉛も産出する多金属鉱床でした。約6km離れた神子畑(みこばた)選鉱場まで運ばれた鉱石は、銅精鉱、亜鉛精鉱、錫精鉱とそれぞれ別の精鉱に選り分けられ、用途に応じて各地の製錬所へ送られていきます。

この鉱石輸送を担ったのが、1912年(大正元年)に開通した5.75kmの鉱山鉄道「明神電車」です。鉱石を積んだ運搬車は1両あたり約5.5トンを載せることができ、これを約30両連結させて1日10往復以上運行していました。1日に運ばれた鉱石は1,000トンを超えていたといいます。
明神電車はもともと鉱石運搬専用でしたが、1945年(昭和20年)から乗客も運ぶようになりました。1952年(昭和27年)以降は乗車賃を1円としたことから、「一円電車」という愛称で親しまれるようになります。

急斜面に建設された神子畑選鉱場では、破砕、摩鉱、浮遊選鉱、比重選鉱という工程を通じて、銅精鉱、亜鉛精鉱、錫精鉱を同時に選り分けました。山の斜面に階段状に積み上げられたコンクリート構造物は、現在もインクラインやシックナーといった設備が遺構として残っ
ています。



明延鉱山の坑内では、鉱石・人員・資材のすべてが大寿立坑(だいじゅたてこう)という一本の立坑を通じて運び出されていました。地下深くまで掘り進められた坑道網の中心に据えられたこの立坑は、いわば明延鉱山の「動脈」にあたる施設で、坑内のどこで採掘された鉱石も、最終的にはこの大寿立坑を経由して地上へと運ばれていきます。鉱山の規模が拡大するにつれて、大寿立坑の輸送能力をいかに高めるかが、生産効率を左右する重要な課題となっていきました。

最盛期の明延鉱山 ― 4000人が暮らした鉱山町
粗鉱生産量のピークは1951年頃で、月産35,000トンに達します。昭和30年代には従業員と家族を合わせて約4,000人がこの山中で暮らしていました。三菱は社宅、病院、スーパーなどの福利施設を一通り整備しており、学校には最盛期で780名の児童が通っていましたが、現在の明延地区の人口は約40人程度まで減少しています。

重機化による生産効率の向上
昭和50年代に入ると、それまでの作業はトラック(軌道を走る運搬車)に頼っていましたが、マインテンダーやストーピングワゴンといったディーゼル式の重機を導入することで、軌道に縛られず坑内を自由に動きながら採掘・運搬を行えるようになりました。こうした手法は「トラックレスマイニング」と呼ばれ、レールの敷設や保守にかかる手間を省きながら、重機が直接鉱石をすくい上げて運び出せるようにする採掘方式です。
この導入により、従業員数は1,500人から370人まで減りましたが、生産量はほとんど変わりませんでした。重機が人手に代わって坑内を動き回ることで、5分の1の人数でも以前と同じ生産量を保てるようになったのです。



明延鉱山の閉山
明延鉱山の粗鉱生産量は、1985年には月産25,000トン前後の生産を維持していました。しかし、同年のプラザ合意以降、急激な円高が進んだことによって、海外で得た収益を円換算した際の価値が大きく減少。輸出を前提とした錫の採算は悪化していきました。
当時はまだ採掘可能な鉱脈が残っており、重機による効率化も進んでいたため、技術的には採掘を続けられる状態だったといいます。それでも、円高によって国際的な錫価格との競争に勝てなくなったことが決定的な要因となり、1987年(昭和62年)3月、明延鉱山はその歴史に幕を閉じました。
現在の明延鉱山 ― 近代化産業遺産として
明延鉱山は2007年(平成19年)、生野鉱山などとともに経済産業省によって近代化産業遺産に認定されました。坑道の一部は「明延鉱山探検坑道」として整備され、当時使用されていた立坑跡が青少年向けの学習施設として一般公開されています。

明延鉱山そのものは稼働を終えましたが、錫の製錬事業は今も続いています。兵庫県内では、三菱マテリアルの子会社であるマテリアルエコリファイン株式会社が錫精錬所を保有し、スズのリサイクルによる高純度電気錫の生産が行われています。
まとめ
明延鉱山は、平安時代から続く長い歴史を持ちながら、明治以降は三菱の経営のもとで国内スズ生産量の90%以上を担う日本最大の錫鉱山へと成長した鉱山です。錫だけでなく銅・亜鉛も産出する多金属鉱床であり、神子畑選鉱場との連携、一円電車による大量輸送、トラックレスマイニングの導入による省人化など、採掘から選鉱・輸送に至るまでの仕組みを一貫して発展させてきました。
円高による採算の悪化で1987年に閉山を余儀なくされましたが、国内のスズ生産の90%以上をこの一山が供給していたという圧倒的な事実は、明延鉱山が当時の日本においていかに代えのきかない存在であったかを物語っています。
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【出典】
日本全国鉱山巡り
廃坑浪漫紀行
明延鉱山
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